[1]もう戻れない恋のこと
もう何時間泣いていたのだろう。時間の感覚なんてとうに消え去ってしまった鈍い頭でぼんやりと考える。起きていると、どうして彼が隣にいないのか訳がわからなくなり涙があふれて力尽きるまで泣き続け、力尽きて眠ると楽しかった時の記憶ばかりが溢れ出て、目が覚めると隣にいない彼の事と、さっきまで夢の中で傍にいてくれたはずの彼の温もりを思い出してまた泣けてくる。
どうして終わってしまったのだろう。本当にもう終わってしまったのか、もしかしたら彼に縋りつけばやり直せるんじゃないか、なんて馬鹿な事を考えても、もうどうにもならないことは私が一番わかっていた。うんと優しい彼が泣きながら告げたことだから、だから最後くらいはと彼の好きだと言ってくれた笑顔で受け入れた。
あっけなく私と彼の5年間は幕を下ろした。私の手元に残ったのは、消せない電話番号と、もう来ることはないline、そしてたくさんの思い出。あぁ、心が痛い。ぎりぎりと締め付けられる胸の痛みで心にも痛覚があるんだな、なんて思った。彼と過ごしていた日々があんまりにも暖かくて愛に満ちていたから心がこんなに痛むものだなんて思わなかった。痛いんだね、心も胸も。あんまりにも子供みたいにわんわん泣いている私を心配してくれた姉が今のあなたにはこれが必要かもねとくれたバスソルトの事を何日も泣き続けて疲れ切ったベッドの中で思い出した。
泣き過ぎた頭は重くて体はすっかり鈍くて傷ついた心は中々治ってくれなくてずるずると沼に引きずり込まれたみたいだった。泣きながらバスタブにお湯を溜めて泣きながらバスソルトを手に取った。正直パッケージなんてみてなかったけどツヤツヤとした手のひらサイズのボトルに入ったそれはなんだかすごく手に馴染むな、と思った。馬鹿馬鹿しいけど昔から恋に敗れると聞いていた失恋ソングのプレイリストを流して心の底からこの傷に浸ってしまおうと思った。なんだか私、成長してないのかな。
深いため息をつきながらボトルの蓋を取った。蓋を取っただけでも分かる。この香りはラベンダーだ。ハーブって色々あるけど一番好きな香りだ。ざらざらとお湯の中にこぼしてゆらゆら揺れる湯気とキラキラ光りに反射してる岩塩とラベンダーがかわいい。
涙はぽろぽろ溢れてるけど、ほんの少し、ほんの少しだけ心がふわってなった。
お湯に体を沈めると更に香りが強くなった。温かいお湯の中は彼の腕の中みたいでまた泣けてきたけど、心は解かれたみたいに少し緩んできたみたいだった。涙がお湯の中に溶けていって代わりにラベンダーの優しい香りに包まれて安心できた。何日ぶりかな、ほっと息が抜けたのって。あぁ終わったんだなぁって気持ちと、彼の幸せを祈る気持ちが交互にきて、これが愛なのかと思った。彼の事がすき。今だってどうしようもないくらい好き。彼と出会う前までは彼がいない生活をしていたのに、もう彼がいない生活がわからない。どうやって生きてたっけ、私…。でも、それ以上に幸せになって欲しい、笑って欲しいって気持ちが湧いた。彼と居た時は散々、愛してもらってたのに私がしてたのは恋だったのだ。別れて彼がいなくなってしまった今、彼を愛してしまった。彼がどんなに私を大切にしてきてくれたか今なら分かる。どうしよう、愛おしい。彼が愛おしい。心の奥から湧いてきた感情に泣いてしまった。彼を愛したい、彼が愛してくれた以上に。縋るんじゃなくて、深めたい。ふたりで、一緒にいたいと思った。一緒に生きたい。それがだめでも彼が幸せになってほしい。この世界の誰よりも。一番の幸せに彼が包まれることを祈った。祈った事なんてないけど、神さま、祈るよ。彼を幸せにしてください。
心も体も温かくなって大げさだけど生まれ変わったみたいだった。そういえば姉が一番辛い日に使ってねと言われていたバスソルト。辛くて辛くて限界だったから使ってみたけど、ほんとうに今の私には必要だったのかもしれない。かわいいかわいい小さな紫の花たちが私の心に優しく寄り添ってくれたみたいだった。僅かな切なさを残してももう痛むことのない心が少しだけ嬉しかった。
お風呂から上がる頃にはすっかり涙も止まっていた。彼への愛がある。いまはそれが希望なのかもしれない。(続く)
▷今回のおはなしに出てきたアイテムはこちら。
Le Ambre Lavande
ル・アンバー・ラベンダー